十八歳で父をなくし家をついだ私
何もわからない私を助け、はげまし
育ててくれたのは、親せきや地域の人たちでした
自然ゆたかな小国、そこに住むやさしい人々
私は、そんな小国が大好きです
長岡や山古志などから良いところを学び
もっとよい小国をつくってゆきたい
みんなで、いつまでも
住みつづける、ふるさとだから
日本共産党 細井よしお物語
小国のくらしが好きだったから
8人兄弟の7番目が家をついで
私は 1949 年(昭和 24 年)、 8人兄弟の7番目として生まれました。身体が大きく健康優良児に選ばれ、中学校では野球部主将でキャッチャーでした。長岡高校にすすみ、家が貧乏なので「働きながら勉強して好きな歴史の先生になれたら」と思っていました。
ところが高校3年生の夏、家をつぐつもりでいた長兄がいろいろな事情でつげなくなりました。さわがしい都会よりも小国のくらしが好きで家をつぐことになりました。
その正月、父が急死。家には18歳の私と母、高校1年の弟が残されました。親戚や村の人たちに教えてもらい、助けてもらいながら、葉タバコとコメつくり、冬は名古屋への土方(矢沢工務店)に出稼ぎに出ました。
役場職員になったが
卒業後3年たったとき、役場に勤めている人のすすめで役場の試験を受けました。二次試験の面接で「自衛隊は違憲と思うか」と聞かれ、明確に「憲法違反」と回答。てっきり不合格と思い、出稼ぎにいく用意をしていたら合格となり、12月から役場で働くことになりました。
役場での最初の仕事は税務課固定資産係で、そろばんができなくて苦労しました。下村のそろばん塾に通い、小学生と机をならペて 6 級から教えてもらいました。
地震で行方不明になった妻
私の妻は柏崎での青年運動で知り合い、結婚して30年になります。地震の10月23日は天気もよく、家族みんなで銀杏畑の収穫を終え、「きょうはすき焼きにしよう」と、妻と娘が小千谷まで買いものに行きました。地震発生の30分前です。いつまで待っても、帰ってきません。連絡もありません。ラジオで聞くと、桜町では死者もでているとのことです。
集落の避難対策も終わり、夜の10時ごろ、息子と小千谷までさがしに行きました。「もし死んでいたら…」「妻はオレのところに嫁にきて幸せだったのだろうか」などと考えてしまいました。
寝られないまま朝をむかえ、今度は谷底を見ながら、小千谷まで行きましたが、見つかりません。
集落の被害調査が終わった昼ごろ、こんどは越路町経由で小千谷にむかいました。岩塚小学校の手前までいくと、見なれた丸い顔が歩いてくるではありませんか。妻だと思ったら、涙が自然にあふれてきました。
「無事でよかった」と、人前で抱きあってしまいました。
大地震にあって、「自分の人生はどうだったのか」と突きつけられたように思います。
多くの人たちに支えられ、育まれた次女
次女に障害があることを知ったのは、2歳になったころでした。おとなしく一人遊びの好きな子で、「少しことばがでるのが遅いかな」程度に思っていました。保母さんから忠告をうけ、よく注意してみると、自閉症の兆候が多くありました。
保育所の保母さんたちの努力で、卒園ちかくには、片言ですが「お母さん」「お父さん」としゃべれるようになり、うれしくて涙がでました。小学校では、特殊学級のH先生から根気よく教えていただき、字も覚え計算もできるまでになりました。遅れてはいても少しづつ成長し、感情もある子に育てていただきました。
障害のちがいをこえて力あわせ
町の支援で「しぶみ工房」が実現
次女が中学生になったころ、「手をつなぐ親の会」に参加し、小国町にも子どもたちが通える福祉作業所をつくろうと運動を始めました。
当時、精神障害者家族会の内山泰介会長が同じことを考えておられ、身体障害の家族会もいっしょに「しぶみ作業所」を設立しました。
2年目からは県の補助をいただき、専任の指導員をおけるようになりました。1996年(平成8年)には、町が4千万円かけて旧診療所を改修し、太陽作業所の分室として認可作業所になりました。さらに 2000年(平成12年)、30人の「しぶみ工房」となり現在にいたっています。
自立をめざすグループホーム「川端寮(男子寮)」ができあがり、いま女子寮の建設もめざしています。こうやって身体、知的、精神の関係者が、障害のちがいをこえて力をあわせている事例は、全国でもめずらしいのだそうです。いまでは時代の先進になっています。
町民のみなさんに恩返しをしたい
障害をもった子がどうして生まれたのかと嘆き、切なくて妻と二人で泣いたこともいっばいありました。しかし、次女のことを恥ずかしがったり、隠したりはしないことにしようと二人で誓ってきました。
町や多くのみなさんが応援してくれ、ここまでこれました。いま町民のみなさんに恩返しをしなければならないとの思いでいっばいです。
小国らしいコメづくりめざし集落の知恵と支えあいを学んで…
小栗山集落…農業つづけたい人は大きくても小さくてもみんな主役
1992年(平成4年)、農林係長として大区画基盤整備と生産組織づくりの仕事につきました。小栗山集落では、小さい農家も農業をつづけられ、機械貧乏にならないようどうするかを、3年かけて話し合いました。そして、「農地の所有権と耕作地を分ける」という新方式をあみだし、1町歩のほ場整備に着手。集落の知恵と支えあい、粘りづよさをほんとうに学ばされました。
森光・法末集落…工事費の安い小国方式で中山間地の田直し
森光や法末集落では、農家とオペレーターとが自由に相談しながらすすめる田直し事業をすすめました。経費はオペレーターの人件費と重機の借上げ、燃料、資材費のみです。
県の6割補助も認められ、少ない農家負担ですみました。田直しによって、山間部の田んぼも受託できるようになり、「一集落一農場」という新方式で「森光担い手生産組合」がたちあがりました。
山野田集落…都市との交流で安定した価格と販路の確保
都市との新しい交流も生まれました。年間9万円で田んぼを貸し、収穫したコメの3俵を都会の契約者に提供するというものです。
正月の堆肥づくり、4月の田植え、6月の草取り、秋の収穫などに都市の人たちがやってきて、山菜とりやほたる狩りなどを楽しみます。
法末集落にもひろがって
山野田集落からはじまった都会との交流は、都会の人たちの希望者が多く、法末にもひろがりました。
法末集落では営農組合がつくられ、乾燥機と倉庫をそなえた集出荷施設もつくられました。この施設から毎月、おいしいコシヒカリが契約者に直送されます。安定した価格と販路の確保とともに、楽しい人間的な交流がうまれ、今回の大震災ではたくさんのお見舞いや激励の手紙がよせられたそうです。ありがたいことです。
法末も山野田も、震災でひどい被害です。私は、生産組合の人たちとヒザをまじえて話し合い、農家の願いを長岡市に反映できるようがんばります。
森林組合と銀杏に燃えて、がむしゃらに走った・・・30代
28歳、役場にはいって7年目、森林組合事務局に出向となりました。小国町が山を借りての植林事業を始めたときでした。毎年30町歩ぐらいの植林で、夏場は80人ぐらいの作業班が働くようになりました。私は毎日、現場の段取りにあけくれ、冬場は10人ちかい通年雇用者の仕事さがしに走りまわりました。
しかし植林しても、雪の重みで杉苗は思うように育ちません。会津地方には、「斜め植え」(杉の苗をヨコに寝せて植え、苗の3分の2を土のなかに埋める)という手法があるこどを知り、県林業公社の専門家と協力して、森光のお寺の山で挑戦してみました。苗はりっばに育ちました。ごの「斜め植え」は小国町から始まり、県下にひろがりました。
小国の特産物をさがせ
小国町の農業は、乳牛、蚕、キャべツ、八石なすなど、チャレンジの連続でした。葉タバコも輸入と減反で大変な状況でした。
あるとき、「昔から小国にある銀杏はどうか」と気づきました。元農協組合長の若井徳松さんの熱心な調査で、メス248本、オス11本の銀杏の木があり、収穫量は10トン。すでに東北一の銀杏の産地であることがわかりました。
そんなとき出稼ぎの人たちから、「街路樹用の銀杏の苗木が売れなくて切っている」という情報。6千本の苗木を買い取り二、33町歩をこえる畑に銀杏が植えられました。この苗木には、小国の銀杏からえらびぬいた「八石」「白銀」「桃太郎」の三大品種を接木しました。昭和61年、200人の「ぎんなん生産組合」が結成されました。
近年は、価格低迷で大変ですが、健康食品、無農薬の自然栽培品としての魅力を、ぜび生かしていきたいと思います。
チェーンソーで腹をきる大ケガをして
「死んだつもりで」と、立候補を決意
1996年(平成8年)、47歳のときでした。町会議員選挙がせまるなか、加瀬哲男議員がドクターストップででられなくなりました。急きょ代わりの候補者をたてることになり、私に白羽の矢がたてられました。
やっと課長補佐になって、名刺をつくったばかり。当選しても、給料は半分以下になります。しかし、町民の願いに応える日本共産党の議員の大切さもよくわかっていました。
そんなとき、庭の木の手入れをしていて、チェーンソーで腹をきる大ケガをしてしまいました。診療所の先生から、「チェーンソーは木を切るものだ。腹をきるバカがどこにいる。少しまちがえれば死ぬところだったぞ 」といわれました。「死んだかもわからない」と思ったとき、悩んでモンモンとしていたものが私なりに吹っ切れ、役場をやめる決意ができました。
役場の同僚には、「議員になるより役場にいた方が、小国町の役にたてるのでは」といわれました。しかし、墓地問題の解決や大震災を経験して、町民みなさんや小国町のために、私なりの貢献ができたのではないかと思います。
議会初質問はヨウ素剤の全戸配布
自動車で走って、集落への配布時間を調べて
原発事故で放射能が漏れたとき、すぐヨウ素剤を飲むことが最大の緊急措置です。町が用意したヨウ素剤は、診療所にまとめて保管され、事故があったら総代さんが取りにきて、集落ごとに飲んでもらうことになっていました。放射能は、そよ風でも約20〜30分で小国町に到着します。
議員になっての初質問で私は、このヨウ素剤をとりあげました。総代さんが集落へもっていける時間を、ストップウオッチをもって自動車で走って調べました。結果は、間に合わないのです。
この事実を前に町長は、「せっかくのヨウ素剤が役立つように対応したい」と答弁。全国で初めてヨウ素剤の各戸配布が実現しました。
わが家では、富山の薬箱のフタにヨウ素剤をはりつけてあります。これを使うことがないよう、原発の安全運転こそが私たちの願いです。
800年前、小国一族は越後の一大勢力だった
ふるさとの歴史に魅せられ、全国の地を歩く
昨年の「もちひと祭り」の野外劇は、途中雨にふられましたが、なんとか最後までやりぬくことができました。多くのみなさんを魅了したことと思います。
いまから約800年前、小国の谷でくりひろげられた歴史の再現です。私が、この祭りのもとになった柿花灰先生の「皇子逃亡伝説」を手にしたのは、1993年(平成5年)の9月、原の北原本家の北原信義さんからでした。
「小国町歴史口マンを語る会」から「もちひと祭り」へ
おごる平家の専制支配に、初めて反旗をひるがえした「もちひと王」。「皇子逃亡伝説」は、戦にやぶれ、敗走する「もちひと王」をかくまった小国一族の行いを、北原本家に伝わる巻物や多くの史実で明らかにしたものです。そして、当時の小国は、弥彦村や下田村、遠くは上川村までをも領地とする、越後の一大勢力だったのです。
これを読んで感動した私は、多くの町民にこの壮大な歴史のロマンを知ってもらいたいと、「小国町歴史ロマンを語る会」に参加し、この物語の「まんが化」などにとりくみました。
小国町で初めての歴史まつり「もちひと祭り」が、関係者の努力と多くの町民の参加で開催されました。800年前に、雪ぶかい小国をけん命にきりひらいてきた人々の想いを、いまかみしめています。
小国一族と「もちひと王」の研究をライフワークに
歴史の好きな私は、これをきっかけに小国一族と「もちひと王」の関係する地を訪れ、研究をすすめています。
大内塾、上川村、岩室村には、仲間のみなさんと伺いました。私自身は静岡県三ケ日町、茨城県古河市、福島県桧枝岐村に足をのばし、昨年は京都宇治の平等院から、「もちひと王」がたどった丹波ー若狭ルートを現地の研究者の案内で歩きました。
いつの日か、全国にひろがる小国一族の壮大なスケールをまとめあげられればと思っています。
【小国の旗】2005年3月号外掲載「細井よしお物語」より
※一部都合により省略してあります。